差別と戦う
海外で生活をしていると、時として、人々の偏見からくる心ない一言や、不当に思える扱いを受けることがある。
特に私は、移民に英語を教えるという、一見英語がネイティブの人たちに有利な畑で仕事をしているので、自分の(仕事上の)価値を周囲にアピールし認識してもらうことは、とても大変。
偏見からくる差別が大きな壁となることがある。
詳細を書き出すと、長ったらしくなるので、控えるけれど、今現在、雇用主であるカレッジを相手に、人権侵害の抗議を申し立てている。
今日はそのプロセスの一つ、mediation
を終えてきた。
結局、お互いの言い分は平行線のまま。
でも、この訴えを起こす過程で、差別をする人間には、二種類いることに気がついた。
一つは、自分が差別的であることを自覚した上で相手にネガティブな感情を持って差別するタイプ。
例えば、「◯◯人嫌いだから、あんたには家を貸さないよ」という差別。
多くの場合、「◯◯人嫌い」という感情は、根拠の薄い偏見や過度な一般化からきていることが多い。
もう一つは、自分が差別をしていることに気づくことなく、むしろ自分がやっていることは正しいのだと信じる確信犯タイプ。
私が戦っている雇用主は、この後者のタイプだからたちが悪い。
もともと、誠実な謝罪と問題改善のための努力が見えない限り、この時点で和解するつもりはなかった。
ものすごいエネルギーを費やして、この1年、精神すり減らして戦ってきたから、今日、ある一種の区切りがついて、なんだかホッとしているところもある。
次は、法廷も巻き込んだ investigationを迎えることになる。結論が出るまで、2年とかの長い戦いだけど、自分の腹で感じることを信じてやるしかない。